新作であるブルガリ オクト フィニッシモのリー・ウファンとのコラボレーションは、このコレクション史上、同メゾンから生まれた最高のオクト フィニッシモのひとつであるだけでなく、私がこれまで見てきたなかで最も魅力的で心を揺さぶる、ブランドとアーティストの協業である。どちらの成果も些細なことではないが、年に何百本もの時計を手にしてきた私が、テクニカルな部分、仕上げ、価値、あるいは歴史に感銘を受けるだけでなく、心から感動させられるというのは珍しいことだ。
Bulgari Octo Finissimo Lee Ufan LE
おなじみのフレームワークは、直径40mmで厚さ5.5mmのチタン製オクト フィニッシモのケースにインデックスはなく、グラデーションのミラーダイヤルとブラックのインデックスのみ。ケース内部には、時・分・秒を駆動するマイクロローターのBVL 138 ムーブメントが搭載されており、パワーリザーブは60時間(これほど小さなムーブメントにしてはかなりの量)だ。
そして、手作業でヤスリがけされ、ひとつとして同じものはないというケース。もしあなたが40mmのオクト フィニッシモを着けられるなら、この時計はあなたにとってよいものとなるだろう。もしそうでないならあなたには合わない。将来的には、より多くのオプションが登場するのを期待したい。このことは、よく知られたフレームワークを持つ本作の実機レビューを締めくくるのに十分なほど自明だ。しかし、私が語りたいのはそこではない。
Bulgari Octo Finissimo Lee Ufan LE
感情に関するこの話は、多くの人にとってあまりに甘ったるく聞こえるかもしれない。趣味が広がり、価格が上昇するにつれて、買い手が価値を維持できるかどうかや投資に重きを置くようになったのは当然だ。人々がお金を無駄にしたくはないと思っているのも理解できる。私はデザイン、品質、仕上げ、製品の仕様について議論するコメントをいつも目にしているが、製品がもたらす感情についての議論はほとんどない。もしあなたが、これを書いている私ほど感情的になることに前向きでなくても、それは大丈夫だ。しかし感情こそが、時計(あるいはどんなものでも)への熱意の中核を成していることを覚えておくことは重要である。
Fabrizio Buonamassa Stigliani
紙にデザイン画を起こすことで知られるファブリツィオ・ボナマッサ・スティリアーニ(Fabrizio Buonamassa Stigliani)氏。しかし、紙は時計にとって最適な媒体ではない。
しかし、感情的すぎることはよいことばかりではない。私はこのモデルに関するほかの記事を読んでいないが、その多くはブルガリのプロダクト クリエーション エグゼクティブ ディレクターであるファブリツィオ・ボナマッサ・スティリアーニ(Fabrizio Buonamassa Stigliani)氏が、アーティストとの協業の難しさについて、私やさまざまな人々とインタビューで共有した話に焦点を当てていたのではないかと想像する。だが、私はもう少し深く掘り下げたい。
私はアートが好きで、アーティストとの会話はとてもおもしろいと思っているが、もしあなたがこれまでにアーティストステートメントを読んだことがあるなら、彼らがどれほど“アイデアピープル”であるかを理解できるはずだ。力強いアイデアは力強いアートを生み出すが、アーティストという存在は、実用的で使いやすいオブジェをつくることを役割とするインダストリアルデザイナーの視点とは異なる。アーティストのオブジェは美しく、魅力的で、興味深いものでありうる。だがボナマッサ・スティリアーニ氏が例として挙げたように、オクト フィニッシモを紙でデザインすることを提案するアーティストは実用性や耐久性については考えず、アイデアがもたらすインパクトだけを考えている。かつて私の古いアート写真の教授が言っていたように、もし何かのアイデアだけで十分だと感じるのなら、それをベッドの下の箱にしまって満足していればよい。さもなくば何かを創り、それを世に送り出すことだ。
Bulgari Octo Finissimo Sejima
ブルガリ オクト フィニッシモ “妹島和世”限定モデル。
だが、それが単なるアイデアではなく、身につけられるオブジェとして正しく表現されたときのインパクトがある。オリジナルのオクト フィニッシモ “スケッチ”限定モデルはボナマッサ・スティリアーニ氏自身との一種のセルフコラボレーションといえるが、それはやりすぎることなく、創造性の絶妙なバランスを保っていた。本作が登場するまで、それは私の最も好きな限定モデルだった。安藤忠雄氏とのコラボレーションモデルは、コレクターからの成功を収め、おそらくブランドが最も愛するモデルだろう。一方の妹島和世氏とのコラボレーションモデルは、おそらくより意見が分かれるものだったが、その議論があったことでより大きなインパクトを残した。それでもコレクターは、その意外性と創造性に魅了された。例えばアウロ・モンタナーリ(Auro Montanari)氏は後者のひとつを所有している。このふたつのあいだにある興味深い点は、ブルガリが絶えず日本のアートという源泉を利用していることだ。
日本で最も控えめで、洗練され、そしてどこか憂鬱さを帯びた現代アーティストたちの作品には、魅了的な美しさがある。草間彌生が(例えばルイ・ヴィトンとのコラボレーションで)用いるような、明るくカラフルな水玉模様とはかけ離れているが、私はオクト フィニッシモがそのような鮮やかさには向かないと考えている。実際、私は先ほど挙げた、そして杉本博司や高松次郎といった私の好きな日本人アーティストを形容する言葉こそが、この時計に最もふさわしいと考えている。アメリカ生まれのジョージ・ナカシマでさえ、伝統的な日本の視点を彼の作品に取り入れた。彼の家具は、邪魔にならないのに美しく、自然な形を家のなかに取り込むことを熟慮して作られている。かつて私は、“自分の存在は周囲の人々にとって不便なものであり、人生における私の仕事はその事実を最小限にすることである”という私の中西部の感性が、日本の文化的アイデンティティとほとんど同じであると言われたことがある。おそらく、だからこそ私は日本の内省的でメランコリックなアーティストたちに、ある種の親近感を覚えるのかもしれない。
Sugimoto Lake Michigan Gills Rock
杉本博司による“ミシガン湖、ギルズ・ロック”。作者の実家からほど遠くない場所で撮影された。2024年のフィリップスオークションで販売していた。Photo courtesy Phillips
私がデザイナーと話す際によく使うふたつのアイデアがある。まず第一に、モノには機能するものとしないものがあるということだ。よいものは、機能性、美しさ、実用性など、設計者が意図した目的を全体的な形で達成する。その成功や失敗は、自ずと明らかになるものだ。だからこそ、ちょっとしたバランスの問題で全体が台無しになるような、会議でデザインが決定された時計はすぐにわかる。というか、しばしばそう感じられるのだ。
そこにはたいていノイズが多すぎて、確固たる声がない。公平を期すために言っておくと、私はデザイナーではない。フィードバックを提供するのは喜んでやることだが、写真家として私はゼロから何かを創り出す必要は決してなかった。だからこそ何が機能して何が機能しないかを、私は常に語ることができるのだろう。それはコメンテーターであることの利点だとでも言おうか。しかしそれがうまく機能しているとき、そのモノに関する議論は写真の一部でしかないために、ある意味で余分なものとなる。
ブルガリのオクト フィニッシモ リー・ウファン限定モデルは、モノとして機能している。チタン製ブレスレットの荒削りな表面と、ダイヤルのなめらかで反射するグラデーションのあいだの相互作用は、たとえ孤立した状態で見たとしても調和がとれている。それはまるで上部を切り取られ、ピカピカに磨かれた隕石のようだ。しかしその背後にあるアーティストを理解しなければ、本質を見失うことになる。
リー・ウファン氏は韓国生まれだが、日本の芸術的・文化的景観に対する彼の影響は計り知れない。現代においては、彼は前述の安藤忠雄氏と協業し、彼の名を冠したふたつの美術館(ひとつはフランス、もうひとつは日本)を手がけている。しかし、それに先立つ彼の作品は戦後の日本のアートスタイルである、もの派の基礎を築いた。これは工業と自然の風景の相互作用、相互依存性、そして衝突を探求するものだ。衝突というのは少し強すぎる言葉かもしれない。なぜなら彼の作品は思慮深く、控えめで、美しいものだからである。しかし、それでも鋭いものがあるのだ。