ロレックスの“ハルク” サブマリーナー Ref.116610LVと時を超えた旅へ。

このサブマリーナーは、2次流通市場において一貫した人気を保ち続けているモデルだ。

時計マニアや時計愛好家には、常に心に留めておくべきタイミングがふたつある。まずは、あなたがごく普通の一般的な人物で、たまたま時計に知的または情緒的な好奇心を抱いていたときのことだ。毎日同じタイメックスやG-SHOCKを身につけていたかもしれないし、あるいは自分にとって家宝ともいえるロレックスやオメガ、カルティエ、ハミルトン、ティソ、セイコーを持っていたかもしれない。おそらくあなたはその時計を大切にしていて、これらの時計について少しは知っているつもりだったのではないだろうか。

Submariner
 そして、その好奇心がゆっくりと時間をかけて時計への執着へと変わっていったときだ。あなたは次第に、HODINKEEのようなサイトによく訪れるようになる。レッセンス、MB&F、ウルベルク、グルーベル・フォルセイといった時計についての記事を読み始め、「しまった。どうやら思っていたよりずっとこの世界は深そうだぞ」と気づいてしまう。しかし時計への情熱が高まったことで、それは自分の趣味と呼べるものになった。

 私たちの多くは、ロレックスという言葉を不意につぶやいた知人にとっさに助言をしてしまう類の人間になる前の自分を思い出せないほど、その深みにハマっている。「君はぜひ[ここに時計の名前が入る]を見てみるべきだ。この時計には[ここに歴史的な逸話が入る]という歴史がある。実際、この時計には大きな価値がある。絶対に損はしないよ。株式に手を出すよりよっぽどいい!」。……そんな風に語る自分を抑えるのは難しい。

Rolex
 まあ、そこまで深刻に捉えてない人もいるだろう。しかし私たちのなかには、時計が手に入らないという事実そのものが私たちの関心を刺激する以前の、すなわち時計への熱狂がまだそれほどメジャーではなかったころのことを覚えている人もいるはずだ。Instagramやその向こうにある集団心理から解き放たれ、自由に自分の嗜好を楽しむことができた時代を。

 具体的な記憶として思い浮かぶのは、2014年に家族で行ったパリ旅行だ。祖父が外務省に勤務していた10代の頃をパリで過ごした父は、高校の50回目の同窓会に出席していた。そのころ私は20代半ばだったが、HODINKEEの誌面でしか読んだことがないモデルをひと目見ようと時計ブティックやヴィンテージウォッチディーラーを探し回るという自分勝手な旅の準備をするほどには、時計への執着は一線を越えていた。

 そのとき私が本当に狙っていたのは、ロレックスのGMTマスター IIのなかでも青と黒のベゼルを持った、のちにバットマンと呼ばれるモデルだった。その1年前のバーゼルワールドで発表されたばかりだったので、せめて1度は見てみたいと思っていたのだ。その旅の1日目か2日目だっただろうか、その日私はロレックスの売り場でGMTマスターについて尋ねていた。当時はまだ、ロレックスの熱狂が始まる少し前だったことを付け加えておこう。しかしバットマンのような時計はまだ十分に目新しくて人気があったので、私の努力は無駄になった。

Batman
「申し訳ありませんが、当店にはございません。ですが少々お待ちください。お見せしたいものがございます」と、そのスタッフは私に言った。彼女はよく“コフィン(棺おけ)”と呼ばれている箱を持って戻ってきた。これは簡単に言えば、ロレックスの時計が販売店に納品される際のプラスチックケースである。誰かが購入するとなった場合は、プラスチックや発泡スチロールを取り除いたうえでショーケースや箱に移される。

 彼女は私にその箱を見せてくれた。ロレックスの時計がビニールの下にしっかりと収められている。「この時計が何かご存じですか?」。私は知っていた。それはロレックスのサブマリーナー Ref.116610LVで、その鮮やかなグリーンのベゼルとダイヤルの合わせからハルクの名でも親しまれていた。

「入荷したばかりで、まだ誰にもお見せしていません。興味はございますか?」。現在では当たり前になったウェイティングリストの習慣がなかったこの時代、私は反射的に彼女に返事をしていた。

 ハルクは狙っていたモデルではなかった。そのときの私はリファレンスの末尾がBLNRの時計を探していた。心が欲したものを、ただ求めていたのだ。

「結構です。でも、見せてくれてありがとう」。そして私は、その場をすぐに立ち去った。

Hulk
 私はこのときのことをよく思い出す。というのも、その出来事から10年のあいだに時計の世界は大きく変わったからだ。あれから3年も経たないうちにウェイティングリストやグレーマーケットでの不正が常態化し、中古市場での取引価格が愛情の対象を投資対象へと変えていってしまった。

 もし私が2019年ごろにあの店を訪れていたら、もっと違った反応をしていただろうか? 正直なところ何とも言えない。もちろん私は自分のことをよく理解しているし、サブマリーナーを売るつもりで購入することはないだろうと思う。しかし、その希少性を知っているからこそ、バットマンの代わりにハルクを購入するようなことはないと断言できないのだ。

 しかし2014年当時、私は自分が追い求めていた以外のものに心を惑わされることはなかった。そして最終的にGMTマスター II バットマンを探し出し、購入することになる(その時計についての私の話はこちらで読むことができる)。私がこのような前置きと個人的な思い出話を書いたのは、ロレックスファン界隈において、幅広いコレクションのなかでもハイプモデルといえば基本的にハルクとバットマンを指すものだった時期をはっきりと覚えているからである(セラミックデイトナも確かにそうだが、あれは最初から事実上購入不可なモデルだった)。

Hulk
 私にはハルクを所有する友人がいたし、私自身もハルクに夢中になっていた時期があった。サブマリーナー自体は私にとって非常に思い入れのある大切なモデルだ。HODINKEEでも何度か取り上げたことがあるが、父が持っていた1982年製のRef.5513は私の時計体験においてある種規範となるような時計だった。また、私は若いころに祖父のRef.5513サブマリーナーを譲り受けている(この文章を書いている今、私の手首にある)。ハルクは私にRef.5513と合わせて所有する意味があると思わせてくれる明確な違い、すなわちグリーンダイヤルにグリーンのベゼル、そしてデイト表示を有していた。

 そういえば、ロレックス サブマリーナー Ref. 116610LVの肝心な部分を掘り下げることなく、感情的かつ哲学的な説明をずいぶんしてしまったように思う。まずはその成り立ちに触れてみよう。このモデルは、先にロレックスがフルゴールドとツートンの両軸で行ったいくつかの大きなデザイン変更に合わせて、SS製のサブマリーナー デイトのコレクションを全面的に刷新した2010年のバーゼルワールドで発表されたものだ。ロレックスはこのころクラシカルなプロポーションを廃し、新しいマキシダイヤルとセラクロム製ベゼルを備えた“スーパーケース”の採用を進めていた。